私は、大阪在住の大学生です。関東に友人が多く、良く関東まで遊びに行くのですが、貧乏学生なので新幹線や飛行機を使うような経済的余裕はありません。なので移動には毎回高速バスを利用しています。高速バスだと、新幹線や飛行機に比べだいぶ値段が安いですし、交通費を抑えられる分たくさん友達にも会いに行くことができるのでとても便利です。
人々の移動手段として、JR バスなどがあります。その中で人々の人気を集めてるのが、夜行バスです。理由として、運賃がJRの半分ぐらいという他に、夜行バスで時間を有効に使うことができるからです。寝てる間に、目的地に付きます。私も一度夜行バスを利用したいと、考えてます。夜行バスで時間を有効に使い、朝目的地で丸一日観光をするのが夢です。
琵琶湖の環境について考える「湖国環境フェスタ2011」(日本青年会議所滋賀ブロック協議会主催)が3日、滋賀県草津市下物町の烏丸半島一帯で開催された。東京海洋大客員准教授の「さかなクン」のトークイベントもあり、大勢の親子連れでにぎわった。
さかなクンは、屋外に設けられたステージ上で、琵琶湖に生息する魚について説明。ビワコオオナマズやビワマス、アユなどを紙に描き、会場に詰めかけた子どもたちに、それぞれの魚の特徴について質問した。的確に答える子どもたちに「ぎょぎょ、よく知っているね」と驚いていた。
また、さかなクンの貢献で、絶滅したはずの淡水魚「クニマス」が昨年12月、約70年ぶりに生息確認された経緯も披露。「みんなにも、何かを発見してほしい」と伝えた。
このほか、会場には県内の環境団体が約20のブースを出展。琵琶湖博物館では小学生が、エコ活動に関する報告を行った。
東日本大震災で被災地の沿岸部が想定を超える大津波に襲われたことを受け、長い海岸線を持つ糸魚川市は市内の避難所に海抜標示を設置した。
市消防本部によると、沿岸部の小中学校や公民館など市が定めた避難所に5月26日から設置を始め、現在74カ所。今後、JRの駅や私立保育園など民間施設にも設置する方針。
標示はA3判(縦約30センチ、横約40センチ)。避難所の海抜を数字で表示した。さらに、20メートル以上の場所なら「安全」を意味する緑色の正方形のマークを、20メートル未満なら「要注意」を意味する黄色い三角形マークを入れた。
県内では村上市も海岸付近の避難所で計7カ所の海抜標示を設置している。同市総務課は設置場所を増やす予定で、「(大震災後)津波に対する市民の意識が高まっており、身近な避難所の海抜を知っておくことは重要」と話す。
糸魚川市の海岸線は45キロ。市は県の津波想定に基づき、最大でも2〜3メートル程度と想定している。だが、想定外の津波にも対応した対策が必要と判断した。
市消防本部の大滝正史防災室長は「糸魚川で大きな津波被害の記録はない。それだけに注意を怠りがち。津波には安全でない避難所もあるため、日ごろから近所にある避難所の海抜を意識し、いざという時に備えてほしい」と呼びかけている。
7月4日朝刊
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◇津波に原発事故
東日本大震災で、福島県浪江町の自宅が津波で流され、長岡市に家族と避難してきた西司さん(53)。30年以上、漁師として生計を立ててきたが、漁船も失った。自宅は福島第1原発から7キロで、戻ることもできない。原発事故が収束する見通しの立たない中、海の男は将来への不安を抱えたままだ。【岡村昌彦】
◇家族のアルバム戻り笑顔
西さんは21歳から父堅(かたし)さんと一緒に漁に出た。堅さんが体調を崩し、約10年前から1人で船に乗っていた。堅さんは震災前の2月17日に78歳で病死した。
地震直後、西さんは所有する漁船「堅漁丸」を津波から守るため、すぐ沖合に出た。沖合約5キロに停泊し、一晩過ごした。港には全部で120〜130隻があったが、沖に出ていたのは約15隻。携帯電話はつながらず、無線も船同士しか会話できなかった。家族の安否も不明。岸を見ると、津波が岸壁にぶつかって波が真っ白に打ちあがっていた。レーダーにも津波が映り、船にも「ドドドド」と振動が伝わった。夜になり、周囲には材木や冷蔵庫、電線などが陸地側からたくさん流れてきた。
翌朝、港に戻ると、あたり一面はがれきの山。自宅も流されていた。船を沖合に出すのが遅れて津波にのまれた漁師仲間もいた。ぼうぜんと立ち尽くした。「あそこまでひどいとは思わなかった」
家族は友人の家に避難して無事だった。福島第1原発の事故もあり、着の身着のままで長岡市に避難。現在は同市の雇用促進住宅に家族5人で暮らす。
港に停泊させた船は、避難後のしけで流された。先祖の墓も津波で流されていた。「おやじが亡くなって四十九日もしないまま地震がきた。新盆だし線香もあげたい」。ただ原発事故のため戻れない。もどかしさは募る。「おやじは病院で寝たきりの状態だったから、避難生活をしていたら耐えられなかっただろう。おやじもいい時に亡くなったと思えばな……」と言い聞かせるようにつぶやいた。
現在は貯金を取り崩しながら生活している。妻武子さん(50)は近くの工場で働き始めた。「俺は船しかやったことないし……」。西さんにとってとまどいの日々が続く。長岡で海を眺めに行ったことも。「毎日見てたからなあ」と苦笑い。「今後どうすると言われても……。わかんね」とため息をついた。
ただ最近、思わぬうれしい出来事もあった。
津波で流されたはずの家族のアルバムが戻ってきた。自宅跡近くで見つかったといい、福島県二本松市の小学校に保管されていた。子どもらと撮った七五三の写真や、結婚式の写真……。どれも大切な家族の思い出だ。アルバムを手に取った西さんは、目を細めてうれしそうに眺めていた。
7月4日朝刊
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